薩摩琵琶の歴史概略

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☆日本の琵琶4種類とその流れ

 

雅楽琵琶→平家琵琶→盲僧琵琶→近代琵琶(薩摩琵琶・筑前琵琶)

 

■日本の琵琶の特徴

・頸が曲がっている

4弦(ただし、近代の錦琵琶・鶴田流琵琶は改良して5弦に)

・撥演奏                                        

 1、雅楽琵琶(楽琵琶):奈良時代に日本に伝来

・西アジアから中国経由で伝来

・奏法はアルペジオ(全て弦を鳴らす方法)

・ビヨーンという「さわり」はつかない

雅楽の中では指揮者のような役割を担う

 

 

琵琶は奈良時代に中国から日本へ伝来し、宮中では雅楽の中で用いられる。
平安時代頃から雅楽の琵琶を模した琵琶を盲目の法師(琵琶法師)が伴奏楽器として用いるようになり、鎌倉時代になると「平家物語」に節をつけて伴奏する音楽が流行。


2、平家琵琶(鎌倉時代に誕生)

 

琵琶法師:盲人音楽家(宗教活動もする)、僧体、琵琶を背負って全国を回る。

     座を組んで活躍。室町末ごろから盲人による音楽専門集団の「当道座」に。


※「平家物語」

平安時代末期の源平合戦を題材にした文学。

語り手が盲人のため、はじめは「平家物語」のテキストはなく、全て口承。

平家物語中興の祖、明石覚一による「覚一本(かくいちぼん)」が全国に流行。

現在教科書に載っている「平家物語」は覚一本によるもの。

 

有名な題材:「祇園精舎」「敦盛」「壇ノ浦」等



「平家物語」は今は学校の教科書に載るくらいテキストとして広まっているが、これは平家物語中興の祖、明石覚一の功績によるもの。

もともとは盲目の僧形の琵琶法師が各地を転々としながら口承で伝えていった芸能を晴眼者が書き起こし、纏めたものゆえに、流派や曲によっては内容が異なる場合がある。

また、特に近代琵琶歌では史実に基づいたことよりも、人物にフィーチャーしてその美しさなどを中心に物語れることが多いため、

必ず史実と合致するというわけではない。

明石覚一は「平家物語中興の祖」と言われるが、それは室町時代には「それまでに流行った琵琶法師の平家物語」は廃れていた、いうことともいえる。それを室町幕府に覚一から献上することで、再び権威を与えてもらうことに成功。

江戸時代の琵琶

 

「当道座」:江戸幕府による保護を受ける。当道座のトップは「検校」という官位。

その下には勾当、座頭の官位があるが、多くの琵琶法師は按摩などの副業をして生活。

検校は位を金銭で購入し、声変わり前から稽古を始めた男子、生まれた時から盲目である、等の制約が多く現在、検校の位をもつ人は全国に1人を残すのみ。

 盲人の演奏する琵琶を見て、武士などの知識階層も稽古をしたりするようになる。(楽譜の誕生)

 

 

3、盲僧琵琶(江戸時代17世紀末)

三味線の流行

16世紀末に伝来。はじめは琵琶の代用として用いられるが、次第に大流行。琵琶法師たちは琵琶だけでなく、三味線、箏、胡弓など

弦楽器全般も演奏したが、江戸時代の三味線の流行で琵琶よりも三味線を用いる人が増える。

この頃の琵琶の柱(フレット)は取り外しが可能で、三味線音楽をする際は柱を外して演奏していたと思われる。

幕府の管理している当道座に属さない九州・中国地方の琵琶法師と当道座との利害が対立。

 

1674年 当道座による三味線禁令

→・表向きは「盲僧」として宗教活動をするときだけ琵琶を用いること

 ・柱の打ちつけが必須(三味線音楽の禁止)

 

音楽活動としての琵琶演奏は当道座が独占

困り果てた在野の琵琶法師たちは、生活の糧を得るためなんとか演奏を続けられるように楽器の改良に勤しんだ。

それが現在の薩摩琵琶の原型となっており、フレット(柱)を高くし、柱の間を指の力で押すことで音程を広げる奏法が使われるようになった。

(押しカン奏法)
薩摩藩の武士や町人等、盲目でない人達も教養として琵琶を嗜むようになり、より弾法(琵琶の弾き方)の研究がされていく。
平和の世の江戸時代で、特に外様の薩摩藩では藩主が奨励したこともあり沢山の琵琶弾奏家が生まれた。


よく「武士は戦いの時に士気を高めるために演奏した」という一見「らしい」説明を見かけるが、江戸時代薩摩藩に戦争らしい戦争はほぼなく、

主君を想う歌や読み人知らずの恋歌等が多く残っている。 

4、近代琵琶(薩摩琵琶、筑前琵琶)


明治時代になると幕府の解体により当道座も廃止され、平家琵琶に関しては一部の家が教養として語り継いで残していくことになった。

薩摩藩が政治に台頭してきたことで東京へ薩摩琵琶が進出し、様々な琵琶の創作曲が作られて人々の支持を得る。

また、明治天皇が薩摩琵琶を愛好したために薩摩琵琶の御前演奏が盛んに行われた。

 

このころ、永田錦心という名人が出てきて薩摩琵琶の流派に「錦心流」という流派が新たにでき、それ以前の薩摩琵琶「正派」と呼ぶようになる。

節が冒頓として弾法が勇壮な薩摩琵琶正派に比べ、錦心流は節をきれいに回す歌い方で、当時の東京のスタイルに合わせた流派といえた。

近代琵琶に関しての専門誌『琵琶新聞』が明治42年に創刊し、薩摩琵琶、筑前琵琶は空前のブームとなり、多くの名人が九州から東京にやってきた。

『琵琶新聞』社長の椎橋松亭の勧めにより永田錦心は「錦心流」という流派を立ち上げ、多くの名人を輩出。

錦心流の会は永田の永、の字を二分割した「一」「水」会という名前で今も幅広い方が所属する。

【大正・昭和時代】

 

永田錦心が40代初めで早逝してしまうと誰が永田錦心の正統な流れを受け継ぐかで錦心流の中で対立が起きます。

これは当時の琵琶新聞という月刊誌で毎回論争(というか喧嘩)がされ、とても面白いところです・・w

当時16歳であった永田錦心門下の水藤錦穣が永田錦心が亡くなるや否やこの騒動に巻き込まれ、錦心流を追われます。

妬みが渦巻いていたんでしょうね・・・。

錦心流を追われた水藤錦穣は以前から永田錦心に勧められていた「五弦五柱」の薩摩琵琶を開発・実践していくようになります。

 

四弦四柱の普通の薩摩琵琶は柱と柱の間にものすごい圧をかけて音程をつくるので、女性や子どもが扱うにはとても難しい楽器なのです。

というのも、薩摩琵琶は(筑前琵琶もですが)声の高さに合わせて調弦をするので、声の調子が高い女性やこどものキーは弦のテンションがパンパンで高い音を出そうとすると締めこんだ圧力で糸が切れてしまうことが課題だったからです。

 

柱を一つ増やし、締めこまなくても音が出るよう、また1本切れても隣の糸を弾けるよう改良した五弦五柱の琵琶は「錦琵琶」と言われるようになり、新たな薩摩琵琶の流派が誕生しました。

 

 

そして、その頃ラジオが出来てからは、浪曲とともに日本人の聴きたい芸能ランキングで上位を占めたり、人気の演奏家はお座敷を一晩で何度も掛け持ちしたそうです。(うらやましい・・・)

ひとえに、語り物系の芸能は、聴衆もその内容をよく知っていることが前提となります。平家物語の話の筋や登場人物、そのオチまで知っているから長くても聴くことが出来たと思います。
今はそういう機会も減り、POPSなども歌詞が重視されるよりもリズム先行なので、琵琶だけでなくとにかく語り物系で節つけて長く歌う芸能は眠く聞こえてしまうような気がします。
聴きなれてないだけだとは思うので、めげないでちょっとずつ聴いてみてほしいと思います。声の倍音とか、ダミ声の心地よさは徐々にわかってくると思いますー!

 

戦争の頃は浪曲などとともに軍部に利用されたと言われています。

その頃の琵琶新聞を見ますと、毎回必ず「あの日の乃木大将」とか「噫々ノモンハン」などといった戦争物の新作やコラムが出てきます。

そしてその頃新作を書きまくっていた作詞家、演奏家は戦後ぱったりいなくなるのですよね・・・。

演奏家たちも満州や中国などへも慰問演奏に行っていました。

戦死した名人も多かったということです。

 

その頃、錦心流に押され続けてきた薩摩琵琶正派は「修錬会」という会を開き、「米英撃滅蹶起記念大会」といった演奏会もしていましたw

政治的に有利というか、時代なんでしょうが、そういう感じで琵琶も右翼的な活動をする人が目立っていたようです。

また、面白いのがその頃詩吟が一緒に流行ります。

考えてみれば琵琶は楽器自体が難しく、また節の合いの手を自分で入れなくてはならないので節だけのものを・・と人が望むのは当たり前なのかもしれません。

楽器がない時も節が歌えるように琵琶界でも詩吟がはやります。

必ず起こってくる現象なのですが、歌詞の意味を伝えるというよりも節を回しまくってしまう節自慢が多かったそうです。

面白い記事が琵琶新聞にあったのですが、慰問に行った演奏家が何を歌っているのか全く分からなかった、とのクレームがあったそうです。

きちんと歌詞を伝える語り物の琵琶も、だんだん様子が変わってきたなぁと個人的に思いました。

 

【戦後~なう。】

戦後は、多くの名人が戦死し、人々も生きていくのが精いっぱいの中、琵琶歌も衰退していきます。

創作曲が作られることがほとんどなくなり、昔作られてよく演奏されていたものを中心に演奏され、細々と語り継がれていくようになります。
戦後、GHQや政府からの圧力のせいで琵琶が廃れたと言われていますが、これに関してはまだ研究が進められていません。戦時中は合戦物など国に忠義を誓った題材が多く演奏された経緯があり、琵琶が大衆の前から姿を消したことは皇国主義的な政策排除の一環とみなしているようです。
「戦艦大和」「橘大佐」など軍と関わる曲も好まれた・・のかウケるからやったのか定かではありませんが、詳しくは上記の通りです。


戦前から琵琶歌に関してはどんどん精神的な方向に流され、「参加していることに意義がある」「この曲をやらなくては」と忠君愛国もの、内容ばかりで技や心がないなどの批判があったようです。戦後一気にその反動がきたのかもしれません。

1960年代の武満徹のオーケストラ音楽に琵琶演奏家、鶴田錦史が登場するまでは琵琶は下火になります。
鶴田錦史は錦心流から出て、水藤錦穣門下のNO2となり、一時はキャバレーなどを経営する実業家に転身。鶴田流を始めた演奏家です。

Tsuruta Kinshi
Tsuruta Kinshi

私の師匠の師匠です。そしてこんなイカつい(失礼)けど、女性です。
戦後以降は生涯男装で演奏されました。
擦弦奏法やハタキ(琵琶の腹板を強く撥で叩く)をさらに深め、楽器の改良を行いました。

錦琵琶の五弦五柱の琵琶をさらに改良し、糸口(右図の一番上の所)をさらに広くし、全体のサワリをもっと鳴らすよう鶴田流なりの五弦五柱琵琶を完成させました。
また、エレキ琵琶、高価でなかなか採れない柘植の撥以外の撥の改良などの試みもされたそうです。(実用化にはいたらなかったそうですが・・・)

現在は若い奏者が洋楽や、他の民族音楽との交流を深めながら活動を続けています。

・・・ってつまり私たち、若い琵琶演奏家のこと。


 

琵琶人口はどんどん減ってプロアマ合わせて900人を切っているといわれています。
そのうちの多くが70代以上の大ベテランの方々です。
20年後、30年後を考えると・・・琵琶界は結構ヤバイのです。
日本の芸能が廃れてなくなろうとしているのです・・・。

人口が少なければ、マトモではない・・というか自己流でやってお弟子をとる人も出てきています。

ギターや洋楽器と違って琵琶も邦楽。

師匠から稽古を受け、その精神(という言い方は嫌いなんですけど)や考え方をもうけつぎ、未来へとつなぐ演奏をしていければと思っています。

歌舞伎や能を自己流でやってお弟子をとる人がいないのは当たり前ですが、それと同じ・・はずなんだけど、そうでもないみたいなんですよね・・。

そんな薩摩琵琶ですがロックな魂持っている楽器ですので、どうぞ皆様宜しくお願いいたしますー!!